公現後第4主日礼拝 ヨハネによる福音書2章1節~11節
はじめに
受験シーズンになりました。私は受験の当日にインフルエンザにかかった経験があります。人生には想定外のことが起きます。今日の聖書は、結婚式の最中にぶどう酒が尽きるアクシデントが起きる「カナの婚礼の奇跡」です。ユダヤ人にとって結婚は神の祝福であり、ぶどう酒はその象徴です。詩編104編15節に「ぶどう酒は人の心を喜ばせる」とありますが、祝宴での不足は「祝福の喪失」を意味します。
1. 婚礼の席での問題
「カナ」はナザレ近くの町で、イエスとマリアはその町の結婚式に招かれました。ユダヤの婚礼は一週間続く盛大な祝いで、ぶどう酒が尽きるのは大失態。花嫁花婿の契約が完成せず、家族や共同体の恥ともなります。とはいえ私たちの生活でも、経済や愛情などが「足りなくなる」ことが多々あるものです。先日お訪ねたした特別養護老人ホームでは、管理栄養士による食事の管理によって、栄養不足の高齢者が元気を取り戻したお話を聞きました。
2. イエスとマリアの対話
ぶどう酒が足りなくなった事態を見たマリアは、イエスに「なくなりました」と伝え、あとはイエスに委ねました。イエスは「わたしの時はまだ来ていません」と返答しながらも、行動を起こします。ヨハネ17章1節の「時が来ました」が示すように、イエスの本来の使命は十字架と復活によって神の栄光を現すことです。ぶどう酒の不足は関係がありません(4節)。それにもかかわらず、マリアの信仰がイエスを動かしたように、私たちも困難を神に委ねながらも、事態を動かす姿勢を持ちたいものです。
3. 水がぶどう酒に変えられる
イエスは召し使いたちに、水がめに水を満たすよう指示しました。すると、水がめの水は最上のぶどう酒へと変化します。これは、単なる不足の補充ではありません。水がめの水は「旧約の清め」を意味します。水がめの水がぶどう酒になったのは、旧約聖書を超える、新しい清めの到来を象徴するしるしです。私たちの日常の中に神の力が働くとき、「何の変哲もない水」のような毎日は祝福された日常に変わります。キリストにあって、人は「新しく造られた者」とされ、周囲にも変化をもたらします(Ⅱコリント5章17節)。
4. イエスの栄光が現れ、弟子たちは信じた
2章11節は、この出来事を「最初のしるし」と呼んで、イエスの神性を顕すものと位置づけています。この奇跡は人を驚かす出来事というよりも、本質を指し示す「サイン」です。水がぶどう酒に変わったことは、「イエスが救い主である」ことを示す重大な「サイン」です。祝福とは、宝くじの当選のような派手なものではありません。私はダウン症の女性との関わりがあります。その人は周囲を和ませます。そこに小さな幸いが宿っています。私たちは、神がともにおられる「サイン」を見逃さない感性が大切です。
まとめ
「カナの婚礼」の奇跡は、神が私たちの「不足」を「豊かさ」に変えてくださる物語です。ぶどう酒が尽きるような「限界」からこそ、新しい恵みが始まります。神に心を委ねるとき、疲れた心は潤いを取り戻し、「小さく」しかし「豊かな」恵みのしるしが見えてきます。今週も神さまのしるしに目を向け、神の栄光を現して歩み出しましょう。
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