8月15日(日)聖霊降臨節第13主日

「汚れた霊」 マタイによる福音書12章43~50節


 今日は、「汚れた霊」と題して、マタイ12章43~50節のみことばに学び、信仰の糧を与えられたいと思います。

43 「汚れた霊は、人から出て行くと、砂漠をうろつき、休む場所を探すが、見つからない。44 それで、『出て来たわが家に戻ろう』と言う。戻ってみると、空き家になっており、掃除をして、整えられていた。45 そこで、出かけて行き、自分よりも悪いほかの七つの霊を一緒に連れて来て、中に入り込んで、住み着く。そうなると、その人の後の状態は前よりも悪くなる。この悪い時代の者たちもそのようになろう。」

46 イエスがなお群衆に話しておられるとき、その母と兄弟たちが、話したいことがあって外に立っていた。47 そこで、ある人がイエスに、「御覧なさい。母上と御兄弟たちが、お話ししたいと外に立っておられます」と言った。48 しかし、イエスはその人にお答えになった。「わたしの母とはだれか。わたしの兄弟とはだれか。」49 そして、弟子たちの方を指して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。50 だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である。」

 「汚れた霊」について一緒に考えてみましょう。「『汚れた霊』は・・・砂漠をうろつき、」とあります。聖書では、「砂漠」や「荒野」は、死に向き合う場であり、神様に出会う場です。そして、そのような場所に「汚れた霊」の居場所はなく、人のいるところに戻っていった様子が、語られています。「汚れた霊」は、人の内に住むのだと、教えているのです。しかも、「自分よりも悪いほかの七つの霊を連れて来て」とあるように、「汚れた霊」は仲間を連れ、増幅してやってきます。つまり、「汚れた霊」に侵されると、一時はよくなっても、「汚れた霊」に代わる「よいもの」を住まわせないかぎり、結果、「以前よりも悪くなる」と教えています。

 人は、その存在の内に、充実させるものを与えられていないと、だめになることを、今日のみことばから教えられます。

 イエス様は、わたしたちに「汚れた霊」に警戒させ、そのような霊に侵されるのではなく、神の国の福音の真理による霊によって充実することを教えます。「汚れた霊」によってではなく「聖なる霊」によって充実させようと導いておられます。

 「汚れた霊」は、神様からわたしたちを遠ざける力です。「汚れた霊」は、仲間同士でつるんで共謀し、互いにあおり、あるいは、堂々巡りに陥らせます。しかも、「汚れた霊」の増幅を充実と勘違いさせ、滅びへと誘う力です。それだけに、「永遠の命」に繋がるようにと導かれるイエス様は、「汚れた霊」に気をつけなさいとわたしたちに教えておられるのです。

 ここには、イエス様を連れ戻しに来た家族についても語られています。

 イエス様は、[「わたしの母とはだれか。わたしの兄弟とはだれか。」そして、弟子たちの方を指して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である。」]とお答えになっておられます。

 このようなイエス様のお言葉は、とても厳しく響く言葉に思えます。

 イエス様は、どうして、このようなことをおっしゃるのだろうと感じる人々もいると思います。

 かつて、次のような投稿記事を読んだことがあります。

 そこには、50歳を過ぎた女性が、80歳をゆうに越えた老いた母親に向かって、「どうして、わたしをこんなふうにしたのか、わたしの人生を返してほしい」と、罵倒したということが書かれていました。

 妻として十分にやってきた、母として子育てもしてきた、子どもたちはそれぞれに社会人となって自立していった。他人の目からは何も問題がないように思われたかも知れないその一人の女性は、それまで胸の奥深くにくすぶっていた怒りと憤りを、老いた母親にぶつけたようです。何も答えられない母親の姿がそこにあったということです。

 親にしてみたらよかれと思って娘にしてきたことが実は娘を苦しめていたのだとは・・・・・、家族というもの、親子というものについて、考えさせられます。

 わたしたちは、それぞれの人生の節目、節目で、自分を生かしているものは何か、自分という存在を充実させているものは何か、自分は自分を生きているだろうか、と、立ち止まって考えなければならないように思います。

 そうでないと、誰かのせいにしたり、他の人を羨んだり、妬んだり、自分に自己嫌悪したりして、気がついたら死の間際にいた、ということになりかねないからです。

 聖書の教える信仰のことも、イエス様の神の国の福音のことも、神様の愛や救いのことも、永遠の命のことも、どれも、その人その人がよく生きられるために説かれているのです。誰かのせいにしないためにも、また、エゴイズムに陥らないためにも。さらには、自分や他者の間に悪が悪をもって悪を増幅させるということがないためにも、イエス様のみことばに学ぶことは、なんと幸いなことではないでしょうか。

 今日のみことばによって、「汚れた霊」に気をつけなければならないことを教えられますが、イエス様の福音は「聖なる霊」についても教えてくださっておられるのですから、信仰者として導かれてまいりたいと思います。

日本基督教団 板橋大山教会

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