5月8日(日)復活節第6主日(母の日)

「母の日と神様の愛と善行」 マタイによる福音書6章1~15節

 今日は、「母の日と神様の愛と善行」と題して、マタイ6章1~15節のみことばから学び、そこから信仰の糧を与えられたいと思います。

1 「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる。2 だから、あなたは施しをするときには、偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。はっきりあなたがたに言っておく。彼らは既に報いを受けている。3 施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。4 あなたの施しを人目につかせないためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。」5 「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。6 だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。7 また、あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。8 彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。9 だから、こう祈りなさい。『天におられるわたしたちの父よ、/御名が崇められますように。10 御国が来ますように。御心が行われますように、/天におけるように地の上にも。11 わたしたちに必要な糧を今日与えてください。12 わたしたちの負い目を赦してください、/わたしたちも自分に負い目のある人を/赦しましたように。13 わたしたちを誘惑に遭わせず、/悪い者から救ってください。』14 もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。15 しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない。

 5月9日の日曜日は、復活節第6主日の主の日ですが、母の日でもあります。

 子どもの頃、家には父の古いレコードがあり、その中に山室軍平の『母の愛』という説教が収録されたレコードがありました。覚えているのは、山室軍平が母の愛になぞらえて神の愛を語っていることでした。子を慈しみ、子のためになら犠牲もいとわない、そのような母の愛とそれ以上の愛としての神様の愛が語られていたように思います。「母の日」は、愛について考えるときでもあるように思います。

 今日の聖書の箇所の冒頭には、「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる。」と教え、「施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。あなたの施しを人目につかせないためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。」とイエス様はお教えになったと記されています。

 そもそも、真実な意味で善行とは、愛に基づいたものであるときにのみ「善行」と言えるように思います。ですから、動機が愛にあるかどうかに信仰者は信仰の目を向けるべきでしょう。本当に愛から出たものであれば、それは表立ってなされるより、隠れたかたちで行われることが自然のこととなっていくと思います。

 信仰の世界では、神様にすべて知られていることをさいわいとしています。信仰者は、見えるものよりも見えないものに心を向けようとします。見えないものの真実にリアリティを感じることのほうが、大切なことになっていきます。善行さえも人に知られなくてもよいわけです。また、祈りにおいても、同じことが言えると思います。

 ですから、見えるものだけでことがらや行いを判断し価値づけていくことは、イエス様の教えでは、不信仰として、扱われますし、これ見よがしに善行をしても、たとえ、信心深さを装った善行であっても、不信仰のわざに過ぎないものとなるのです。ものごとは、見えない真実が前提になっているときにのみ、見えるものとしても真実なものとなっていくと、聖書のみことばによって教えられると思います。

 ところで、たいていの母親は、子のために、見えようと見えなかろうと、愛情を注ぎ、慈しみ、子どものために労苦を厭わないでしょう。そのような母親の愛が歪んだ愛や憎悪になっていくとしたら、それは、目に見えるものを追いかけ過ぎるからであり、あまりにも見えるものにすべてをかけすぎているからではないでしょうか。見えるもので価値判断し、思うようにならない見える現実に対して、いら立ち、不満を募らせ、結果、無条件な愛情を子どもに注げなくなってしまうとしたら、それは、真実の愛から遠いものになってしまいます。

 イエス様は、神様の愛を、身をもってあらわされたお方ですから、善行をなすにしても祈りをなすにしても、わたしたちは、イエス様にならっていきたいと思います。イエス様に導かれ、信仰が純化されればされるほど、いっそう隠れた善行が大事になっていくでしょうし、隠れた祈りが大事になっていくと思います。見えない真実に信仰の目を注ぐようになっていけばいくほど、見えるものだけを追いかけ、見える形でのものだけを評価し、競わせるという現実に対してさえも違う目で見えてくるようになるのではないでしょうか。

 今日のみことばにあるイエス様のおことば、〔「「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。・・・はっきりあなたがたに言っておく。・・・ 施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。・・・・そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。」・・・・あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。・・・」〕をしっかりと心に留めたいと思います。そしてあらためて「母の日」に真実な愛について考え、右の手のしていることを左の手に知らせないという本来あるべき善行、愛を動機とする善行を自分のことがらにしていくことができたら、何とさいわいなことでしょう。


日本基督教団 板橋大山教会

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