2025年11月2日 今ここにある永遠の命
永眠者記念礼拝
新約聖書 ヨハネによる福音書11章17~35節
はじめに
きょうは「永眠者記念礼拝」です。ここに並ぶお写真は、私たちが愛し、共に歩んできた大切な方々の人生を物語っています。そのご生涯に感謝し、ご遺族の皆さまの上に、神さまの慰めと平安が豊かにありますよう祈ります。
「永眠者記念」と聞くと、どうしても別れの寂しさが胸に迫ります。しかし聖書は、悲しみのただ中にこそ与えられる「希望」を語ります。死は終わりではなく、神さまのもとへ帰ることです。きょうは、「今、ここに確かにおられる主」が与えてくださる永遠の命の希望を、共に受け取りたいと思います。
1. 悲しみの現実の中で 主に出会う
ベタニアに住むマルタ、マリア、ラザロの三人は、イエスさまと深い交わりを持っていました。しかし弟ラザロは病に倒れ、亡くなってしまいます。村の人々は共に集まり、悲しみを分かち合いました。
イエスさまもまた、涙を流されました。「イエスは涙を流された」(35節)。主は、人の悲しみを突き放す方ではありません。私たちの悲しみのそばに立ち、共に涙を流してくださる方です。大切な人を失い、心にぽっかりと空いた穴のような悲しみの中にも、主は確かにおられます。
2.「もし〜なら」から「今、主がおられる」へ
マリアは言いました。「主よ、もし、ここにいてくださいましたら…」。この「もし」は、愛する人を失ったとき誰もが抱く後悔の言葉です。しかしイエスさまは、その嘆きを責めることなく、共に涙を流されました。
そして語られたのが、「わたしは復活であり、命である」という言葉です。永遠の命は、遠い未来の約束ではありません。イエス・キリストを信じたとき、すでに「今、ここ」で始まっています。信仰とは、今この瞬間に主が共におられる恵みです。
3.「わたしは復活であり、命である」—現在形の救い
「永遠の命」は、未来のチケットではありません。主と共に生きようとする私たちの、今のこの命そのものです。パウロは「生きるも死ぬも、私たちは主のもの」と語りました。
祈りの中に帰るとき、言葉にならない思いの中にも、主の命の息吹があります。散歩の途中、誰かとの会話、温かい飲み物のひととき――そうした「今」を恵みとして受け取るところに、永遠の命の風が吹いています。
4. 神の懐に憩う人々と 同じ希望を歩む私たち
私が日ごろ障害者グループホームでの経験から学ぶのは、「今、ここにいる人」を大切にする姿勢です。失った人を忘れるのではなく、与えられている今日を精一杯生きる。その中に、前に進む力が備えられています。
詩編は語ります。「主よ、あなたは代々に、わたしたちの宿るところ」。先に天に召された方々は、今、神さまの懐で安らいでいます。私たちもまた、同じ主のもとに生きています。
涙を流し、感謝し、祈りながら、「今、ここ」に与えられている永遠の命を大切に歩みましょう。主は私たちの羊飼いです。乏しいことはありません。今週も、神を愛し、隣人を愛して、共に歩んでまいりましょう。
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