イースター礼拝 新約聖書、ヨハネによる福音書20章1節~18節
はじめに
皆さま、イースターおめでとうございます。私は朝5時に起き、「週の初めの日、まだ暗いうちに…」という聖書の言葉を思い出しました。今日は、復活の主イエスが、私たち一人ひとりの名前を呼んでくださるということについてお話します。名前を呼ばれると、人は自然と応えたくなります。子どもの頃も、手術の後も、「大久保さん」と呼ばれて、私は反応しました。名前を呼ばれることには、深い意味があります。今日の福音書では、マグダラのマリアが「復活の主」に名前を呼ばれる場面が描かれています。
1.暗闇の中で出会う“空の墓”
「まだ暗いうちに」、マグダラのマリアは墓へ向かいました。安息日が終わった日曜の朝、弟子たちが去った後も、彼女だけが主への愛から墓に向かいました。ところが、墓の石は動かされ、イエスの遺体が見当たりません。知らせを受けたペトロたちも駆けつけますが、遺体のない墓を前に、ただ戸惑い、家に帰って行きます。私たちも、大切な人や希望を失ったとき、心が「空っぽ」になることがあります。けれども、ヨハネ1:5にあるように、「光は暗闇の中に輝いている」のです。
2.涙の中で語りかけられる“なぜ泣いているのか”
お墓に残ったマリアに、天使と「園丁」と思われる人物が「なぜ泣いているのか」と尋ねます。この墓は、裕福なアリマタヤのヨセフのもので、イエス様は丁寧に葬られていました。それは「イザヤ書53章9節」の「富める者と共に、墓に入れられた」という預言の成就です。それでもマリアの涙は止まりません。それは、私たち自身が経験する「喪失」や「不条理」の涙でもあります。主はその涙に寄り添い、「わたしはここにいる」と、静かに呼びかけられるのです。
3.「マリア!」――名を呼ばれて開かれる目
イエスは、マリアの名を呼びます――「マリア!」その瞬間、彼女の目が開かれ、「先生!」と答えました。名前を呼ばれることで、「わたしはあなたを知っている」という関係が回復されます。復活の現実は、ただの知識ではなく、「いま、主が共に生きておられる」と気づくこと。失ったものに泣くのではなく、今与えられている命と希望に生きることです。
4.名を呼ばれ、遣わされるわたしたち
マリアは、復活の主を告げる最初の伝道者とされました。当時、女性の証言は認められていませんでしたが、神はあえて弱い者を選ばれました(1コリ1:27)。主は「行って言いなさい」とマリアを派遣されました。今も、私たち一人ひとりが名を呼ばれ、家庭や地域へと遣わされています。
まとめ(結論)
ベートーヴェンの第九交響曲も、復活の福音も、「苦悩を突き抜けた喜び」を奏でています。今、イエス様は私たちに呼びかけています。「なぜ泣いているのですか。わたしは生きている。あなたも歩みなさい。」第一サムエル3:10の祈り――「主よ、お呼びください。私は聞いております」このシンプルな応答を胸に、復活の光を受けて新しい一週を始めましょう。ハレルヤ、キリストはよみがえられました!本当に、よみがえられました!
お祈り
主イエス・キリストよ、復活を感謝します。あなたが私たちの名を呼び、涙の中に希望を与えてくださることを覚えます。どうか私たちの心を整え、復活の光をもって家族や隣人のもとへと遣わしてください。すべての栄光を主にお返しし、イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
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