9月19日(日)聖霊降臨節第18主日

「永遠の命」 マタイによる福音書19章13~26、30節

 今日は、「永遠の命」と題して、マタイ19章13~26、30節のみことばに学びましょう。

13 そのとき、イエスに手を置いて祈っていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。14 しかし、イエスは言われた。「子供たちを来させなさい。わたしのところに来るのを妨げてはならない。天の国はこのような者たちのものである。」15 そして、子供たちに手を置いてから、そこを立ち去られた。

16 さて、一人の男がイエスに近寄って来て言った。「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか。」17 イエスは言われた。「なぜ、善いことについて、わたしに尋ねるのか。善い方はおひとりである。もし命を得たいのなら、掟を守りなさい。」18 男が「どの掟ですか」と尋ねると、イエスは言われた。「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、19 父母を敬え、また、隣人を自分のように愛しなさい。』」20 そこで、この青年は言った。「そういうことはみな守ってきました。まだ何か欠けているでしょうか。」21 イエスは言われた。「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」22 青年はこの言葉を聞き、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。23 イエスは弟子たちに言われた。「はっきり言っておく。金持ちが天の国に入るのは難しい。24 重ねて言うが、金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」25 弟子たちはこれを聞いて非常に驚き、「それでは、だれが救われるのだろうか」と言った。26 イエスは彼らを見つめて、「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」と言われた。

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30 しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」

 子を思う親は、子どものしあわせを考えると思います。子どもにとって、何がしあわせなのでしょうか。先日、夕食後に散歩をしているとき、しっかりと手をつないで家路に向かって歩く母子の姿が目に入りました。仕事帰りに小さな子どもを迎えにいって一緒に帰るところなのでしょうか。この時間まで働いている親の姿と手をつないで安心の表情の子どもの光景は、社会の現実を映し出しながらも、しあわせとは何かを考えさせます。

 子どもをイエス様のところに連れてきた人々は、いったい何を願い、何を望んで子供のために祈ってもらいたかったのでしょうか。ユダヤ社会の権威の象徴である神殿の祭司にではなく、わざわざイエス様のところに子どもたちを連れてきたのですから、この世での成功や裕福になることよりも、イエス様に祈っていただくことで、神様に祝福されたよい人生をおくってもらいたいという願いからではないでしょうか。弟子たちはそれを見て叱責しました。イエス様は、「わたしのところに来るのを妨げてはならない。」と言われ、さらには「天の国はこのような者たちのものである。」と言われておられます。

「天の国はこのような者たちのものである」というおことばは、まさに天の国というものを言い表していると思います。何が無くても安心というしあわせを子どもたちが一番知っているからだと思います。

 一人の青年がイエス様のところにきて、「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか」と尋ねていますが、イエス様は、永遠の命がこの世での成功やお金の有る無しとは結びついていないばかりか、“よいことは守ったらよい”が、“永遠の命への妨げになるものは手放したらいい“とまでおっしゃっておられます。

 子どもたちを連れてきた人々のように、この青年も、確かに神様に祝福されたよい人生をおくりたいと思ってイエス様のところにきたのだと思いますが、たくさんの財産を持つその青年は悲しみながら立ち去っています。

 イエス様のおことばに、「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。」(マタイ16:26)というみことばがありますが、今日の箇所と重ねて読みたいと思います。

 イエス様の「天の国」、「永遠の命」というおことばは、わたしたちに生と死を考えさせてくれますし、人生としあわせを考えさせてくれます。わたしたちは、神様の前で被造物としての存在の原点にまでへりくだらないと、何が祝福で、何が本当になくてならないものなのか、何がしあわせなことなのかも、なかなかわからないのかも知れません。

「親ガチャ」という言葉を聞きました。町で見かける自動販売機「ガチャポン」を人の人生になぞらえた言葉のようです。ワンコインを入れてレバーを回すとおもちゃの入った小さな丸い容器が出てきます。出てくる容器の中身は、かならずしも自分のほしいと思ったものではないことが多いようです。ガチャっとなってポンとボールが出てくることから「ガチャポン」として子どもにも大人にも親しまれている身近なものです。そのガチャポンになぞらえて「親ガチャ」という言葉が若い人たちの間から生まれてきた背景には、自分の選んだわけではない親や家庭の経済的状態や職業によって自分の人生が決まると思わせてしまう社会の現実があるように思います。先日目に入った手をつないで帰る母子の姿と重なってもきます。

「親ガチャ」を言わせてしまうわたしたちの社会は、変わらなければならないと思います。子どもや母親たち、ハンディーを負わされている人たちや高齢者など弱い立場に置かれている人々に徹底して寄り添うやさしい社会へとかわらなければならないと思います。

 同時に、「親ガチャ」を言わせてしまう社会を越えてものごとを見る目や広がりが問われているのではないでしょうか。いずれも、わたしたち大人の側に問われていることだと思います。イエス様の「天の国」、「永遠の命」と結びついた究極的真理のみことばも、そのことを教え導こうとしているのではないかと思います。


日本基督教団 板橋大山教会

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