8月29日(日)聖霊降臨節第15主日

「天の国のたとえ」 マタイによる福音書13章44~52節


 今日は、「天の国のたとえ」と題して、マタイ13章44~52節のみことばに学びましょう、

44 「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。45 また、天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。46 高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。47 また、天の国は次のようにたとえられる。網が湖に投げ降ろされ、いろいろな魚を集める。48 網がいっぱいになると、人々は岸に引き上げ、座って、良いものは器に入れ、悪いものは投げ捨てる。49 世の終わりにもそうなる。天使たちが来て、正しい人々の中にいる悪い者どもをより分け、50 燃え盛る炉の中に投げ込むのである。悪い者どもは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」51 「あなたがたは、これらのことがみな分かったか。」弟子たちは、「分かりました」と言った。52 そこで、イエスは言われた。「だから、天の国のことを学んだ学者は皆、自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている。」

 “人生においてもっとも価値のあるものは何か、宝とは何か”とは、聖書のみことばがわたしたち信仰者に問いかけてくる問いです。

 イエス様はわたしたちに、“天の国を高価な宝”として紹介してくださっておられます。

 イエス様は、「天の国」を畑に隠されている宝、高価な真珠にたとえてお話になられ、「また、天の国は次のようにたとえられる。網が湖に投げ降ろされ、いろいろな魚を集める。網がいっぱいになると、人々は岸に引き上げ、座って、良いものは器に入れ、悪いものは投げ捨てる。」と言われました。

 わたしたちは、自分の生活や人生のなかで、何を手放し何を残すかと考えるときがあります。断捨離ということばがあるように、ほとんどを手放そうと決心することもあると思います。そして、ほとんどを手放しても、これだけは絶対に手放せないというものがあるとしたら、それこそが宝であり、人生においてもっとも価値あるものと言えるかも知れません。

 ところで、自分にとって何がもっとも価値のあるものか、人生における宝か、この世の日常を見ているだけでは、どうも適切にはとらえられないようです。なぜなら、わたしたちは、目移りしやすく、迷いやすく、惑わされやすく、勘違いしやすいからです。

 ずいぶん以前のことです。友人から誘われてはじめてスキーをしたことがあります。スキーの板も靴も何も持っていなかったのでスキー場で借りてゲレンデに出ました。リフトに乗るのも恐々で手助けしてもらい、眼下に広がるゲレンデはすばらしいのですが、はてさて、どうやって滑って降りたらよいのかと身体が固まったのを憶えています。何度も転んだりしながら、ようやく中腹のロッジまで辿り着きました。そこで昼ご飯を食べていると、目に入ってきたのは、カラフルなウエアやいろいろなブランドのスキーの板やスキー靴でした。

 自分のスキーの下手さと早く上手になりたいという思いとキラキラしたゲレンデに一喜一憂しながら、自分のスキーグッズ一式が欲しいと思いました。帰ってから、いくつものスポーツ用品店を見てまわりました。知人が、次のようなアドバイスをしてくれました。「どんなに値の高いブランド品でも自分の足に合わなければつまらないですよ。安くても自分の足に合っているものが最高です。」、「合っていない靴だと痛くなってきて、滑るのが嫌になりますよ。」。

 けれども、わたしは愚かにも足に合わないブランド品を背伸びして買ってしまいました。ちゃんとサイズを合わせて買ったはずなのですが、滑っているうちに痛くなるのです。スマートな形のブランド品に目がくらんで、サイズだけではわからなかった自分の足の形には合っていないスキー靴を買ってしまったのです。

 樹氷がとても美しいゲレンデの楽しかったことは忘れられませんが、後悔したことは今でも思い出します。

 イエス様は、「世の終わりに・・・」と言っておられますが、どうも、わたしたちは、後になってから気づくということの多いことを考えれば、「終わり」という視点や視座からものごとをみないとわからないのかも知れませんね。

 限りある人生や生活のなかで、判断を誤らずに、勘違いしないで、ものごとをみるには、「今」という視点や視座と共に、振り返りという反省の視点や人生の終わりにという俯瞰的視座が必要なのかも知れません。

 そして、「天の国」を宝として生きるには、「世の終わり」という文言や「歯ぎしり」という後悔の文言に向き合って自らに問われなければならないのかも知れません。

 イエス様が「あなたがたは、これらのことがみな分かったか。」と弟子たちに言われたとき、弟子たちは、「分かりました」と答えていますが、さて、わたしたちはどうでしょうか。

 ある中国時代劇を鑑賞していて、主人公の発した「栄華など続かない」という言葉が耳に残りましたが、まさにそうだと思える生き方やあり方が自分のものになっているかと神様によって問われるような気がしました。他人の評価やこの世の栄華を求めて生きがちな現実ですが、それでも、「天の国」を人生にとってもっとも価値ある宝として生きられたら、信仰者には、とてもさいわいなことだと思います。

「天の国」は、神様の愛と救いにわたしたちの目を開かせ、同時に、この世のすべてを相対化させてくれるのですから。


日本基督教団 板橋大山教会

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