6月6日(日)聖霊降臨節第3主日

「荒れ野で叫ぶ者の声がする」 マタイによる福音書3章1~6節

 今日は、「荒れ野で叫ぶ者の声がする」と題して、マタイ3章1~6節のみことばから学び、信仰の糧を与えられたいと思います。

1 そのころ、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え、2 「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言った。3 これは預言者イザヤによってこう言われている人である。「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、/その道筋をまっすぐにせよ。』」4 ヨハネは、らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていた。5 そこで、エルサレムとユダヤ全土から、また、ヨルダン川沿いの地方一帯から、人々がヨハネのもとに来て、6 罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。

 ユダヤの人々は、歴史的に彼らの信仰と律法を大切に生きてきました。ユダヤ人をユダヤ人たらしめているのは、そのような彼らの信仰と律法であると言われています。

 そのような彼らにとって、洗礼者ヨハネが現れたころは、ローマ帝国の支配下、異文化異文明の圧迫が強まっていったときでもありました。

 ある人たちは、独立国家の再現を熱望し、ある人たちはサドカイ派のように現実主義的に支配層におもねて商売や財産つくりに勤しみ、また、ある人たちはファリサイ派のように形式的律法厳守主義者となり、さらには、都市や集落を離れて禁欲的な信仰共同体を形成して、集団生活をするような人たちもいたようです。

 それゆえ、彼らを彼らたらしめていた信仰と律法がいつのまにか変質してしまってはいないかと危ぶむ状況があったと言えるでしょうか。洗礼者ヨハネは、そのようなときに、現れたことになります。

 今日の聖書のみことばには、「洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え」たと記してあります。

「荒れ野」は、ヘブライ、イスラエル、ユダヤの歴史を歩んで来た人々には、宗教的にも信仰的にも自分たちの原点を振り返るにふさわしい場だったと思います。

 なぜなら、信仰の父といわれたアブラハムも荒れ野を放浪し、出エジプトを果たしたヘブライの民もモーセとともにシナイの荒れ野を放浪しました。エルサレムが陥落しバビロニア捕囚へと強いられた彼らの道のりも荒れ野を放浪するものでした。離散や寄留を繰り返した彼らにとって、放浪に結びついている「荒れ野」こそが、王国的繁栄や栄華とかけ離れた、むしろ自分自身を省みさせる場であったと思います。

 そのようなユダヤの人々が、洗礼者ヨハネから、「悔い改めよ。天の国は近づいた。」という言葉を聴き、「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。」という預言者イザヤの言葉を思い起こさせられたとき、ある者は自分たちの歴史を振り返り、ある者は自分を省みざるを得なかったと思います。そのような彼らのなかから、「ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。」ということが起きていったのだと思います。

 わたしたちも、洗礼者ヨハネの叫びや問いかけに、耳を傾けましょう。

「悔い改めよ、天の国は近づいた。」という“みことば”は、いったい「何を」、「誰に」、「どうして」、「どのように」、「悔い改め」なければならないかと、わたしたちに問いかけてきます。また、「天の国」とは何か。この世に「天の国が近づいた」とは、いったいどういうことなのかと、わたしたちに問いかけます。

 これらの問いを、自分のこととして、考えてみましょう。

 そもそも、聖書の教える神を知り、神様を信頼する、神様を信仰するとは、どういうことか。

 この世だけしか目に入らなかったわたしが、この世を生きつつも「天の国」を思うわたしを生きるようにされるとはどういうことか。

「天の国」が近づくために、その道筋をまっすぐにするというようなあり方や生き方が問題になってくるとはどういうことか。

 このようなことが、信仰と生活のなかに自分のことがらとして入ってきたとしたら、どうでしょうか。

 ユダヤのある人たちにとって、洗礼者ヨハネの呼びかけは、自分たちを原点に立ち返らせるものであったと思います。

 それは、かつて信仰の父といわれたアブラハムが、豊饒と繁栄のメソポタミア(ウル)を離れて放浪し、そのなかで次第に明瞭になっていった神様への信頼と信仰、神様のみこころに沿おうとした生き方への回帰を呼び起こしただろうと思います。

 また、神様に導かれてモーセと共にエジプト絶対王政下の奴隷状態から出エジプト経験を経て解放されていったとき、その途上で与えられた神の法(律法)、自由民を法的に保証するはずのものであった本来の律法の意義を、「天の国」(神様のみこころに)に照らしてとらえ直し、保持し直すという原点への立ちかえりを喚起させるものであったと思います。

 ユダヤの人々にかぎらず、この世の歴史の変遷やその時々の時代精神、また、支配者や権力者の思惑によって翻弄されるわたしたちは、常に、本来的原点、神様への信頼と信仰に、この世の現実という思惑におもねるのではなく神様のみこころを行うということに、立ちかえることが求められていると思います。

 ですから、「悔い改めよ。天の国は近づいた。」というみことばも、また、「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。」というみことばも、わたしたちに、神様へと根本的本来的に立ちかえるための導きであり、そして、天の国(神様のみこころ)への信従を促し教えるものであると言えます。

 今日の箇所では、「人々がヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。」と記されてありますが、わたしたちも、聖書のみことばのもとで、信仰への道筋が鮮明にひらかれていくとしたら、こんなさいわいなことはないのではないでしょうか。


日本基督教団 板橋大山教会

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