2月28日(日)四旬節2主日(受難節第2主日)

「悪霊を追い出されるイエス様」 マタイによる福音書12章22~32節


 今日は、「悪霊を追い出されるイエス様」と題してマタイ12章22~32節のみことばから学び、そこから信仰の糧を与えられたいと思います。

22 そのとき、悪霊に取りつかれて目が見えず口の利けない人が、イエスのところに連れられて来て、イエスがいやされると、ものが言え、目が見えるようになった。23 群衆は皆驚いて、「この人はダビデの子ではないだろうか」と言った。24 しかし、ファリサイ派の人々はこれを聞き、「悪霊の頭ベルゼブルの力によらなければ、この者は悪霊を追い出せはしない」と言った。25 イエスは、彼らの考えを見抜いて言われた。「どんな国でも内輪で争えば、荒れ果ててしまい、どんな町でも家でも、内輪で争えば成り立って行かない。26 サタンがサタンを追い出せば、それは内輪もめだ。そんなふうでは、どうしてその国が成り立って行くだろうか。27 わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出すのなら、あなたたちの仲間は何の力で追い出すのか。だから、彼ら自身があなたたちを裁く者となる。28 しかし、わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。29 また、まず強い人を縛り上げなければ、どうしてその家に押し入って、家財道具を奪い取ることができるだろうか。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。30 わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしと一緒に集めない者は散らしている。31 だから、言っておく。人が犯す罪や冒涜は、どんなものでも赦されるが、“霊”に対する冒涜は赦されない。32 人の子に言い逆らう者は赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることがない。」

 聖書の世界では、目に見えるものごとの物質性にだけ目や心を向けさせるということはありません。肉の目に見えない働きや見えない力に心の目を向けさせます。そして、「霊」や「霊性」について考えさせようとわたしたちを導きます。

 今日の箇所では、悪霊に取りつかれて目が見えず口が利けない人が、イエス様のところに連れて来られ、イエス様によっていやされ、ものが言えるようになり、目が見えるようになったことが記されています。けれども、人がいやされたことを喜ぶ人々がいる一方で、そのことでイエス様に嫌味を言い、責めている人々がいることが記されています。“悪霊の頭だから悪霊を追い出せるのだ。そうでなければ追い出せっこない”と。

 イエス様のおことばは、わたしたちに、お互いの人格やひとりひとりの存在のかけがえのなさを考えさせようとしますし、わたしたちを危うくする悪霊と聖霊について、教えようとされます。

 聖書では、この世のことを語りながら、この世のことについてだけを語ってはいません。神様のこと、天の国のこと、陰府のことなどを、同時に語り教えていますから、「霊」のことや「悪霊」のことや「聖霊」のことを語ります。神様の真理、人知をこえた真理を教えようとします。

 トランポリンの事故により首から下が不随になった星野富弘さんは、ご自分のご本のなかで、「9年という長い入院期間、『あれがなかったら俺の人生は違っていた』と何度も思いました。・・・限りなく過去を遡っては後悔をくり返していました。いっそのこと生まれてこなければよかった・・・。」「来る日も来る日も病室の天井を見ながら、・・・いつもそこに行き着いてしまう・・・あまりにもみじめなことでした。人間にとっていちばんの苦しみは、『今が苦しい』ということよりも、この苦しみがいつまでも続くのではないかと不安になることです。」と書いています。

 その星野富弘さんが

いのちが一番大切だと
思っていたころ
生きるのが
苦しかった 
いのちより
大切なものが
あると知った日
生きているのが
嬉しかった

と詩を書いています。

 星野富弘さんは、苦しみのなかで「いのちより大切なもの」があると知る経験をされたのだと、ご本を読みながら思いました。

 イエス様が、厳しくも「人が犯す罪や冒涜は、どんなものでも赦されるが、“霊”に対する冒涜は赦されない。」と言われ「人の子に言い逆らう者は赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることがない。」と言われておられますが、このことも「いのちのより大切なもの」を知ることにつながっているのだと思います。

 聖書の世界では、よく生きようとすることに対してマイナスに働くことやものに悪霊を語ります。そして、神様に導く働きとして聖霊を教えます。悪霊の働きや聖霊の働きという理解は、見えない真実や真理に信仰の目を向けさせ、この世の病や罪や悪のスパイラルやジレンマを客観視させてくれます。病は病であり罪は罪であり悪は悪ですが、たとえどのような罪深い者も悪の塊のような者も、悔い改めによって救われなければなりませんし、病はいやされなければなりません。それゆえ、わたしたちを負のスパイラルやジレンマから導き出してくれる力、救い出してくれる導きの働きを冒涜してはいけないし逆らってもいけないのです。

 わたしたちは、自分で生きているようで、実は生かされているのですし、自分で自己をコントロールしているつもりでも、何かにコントロールされていることが多いものです。聖書は、被造物を悪や罪に陥らせ操る力や働きに悪霊をとらえさせ、悔い改めや救いや贖いに導く力や働きに聖霊を語ります。なぜこのようなとらえ方を教えるのでしょうか。それは、被造物が救われるためだと思います。超越者であり創造主であられる神様が被造物の内在にまで働きかけてくださることを教えようとする聖書は、被造物の責任を問いながら、被造物を救い出すために、被造物と病と罪と悪を分けて語ります。そこに神様の愛を感じます。

 聖書のみことばに、「悪霊」と「聖霊」について語り教えておられるイエス様のおことばに、救いの真理を読み取ることができたら、そこに喜びのおとずれとしての福音を感じることができるのではないでしょうか。


(もう一言)

 わたしが子どもの頃、日曜学校で『讃美歌』461番の「主われをあいす」をよく歌いました。でも、自分は、歌詞の意味まで考えては歌っていませんでした。口ずさんでいるうちにようやく考えるようになった次第です。

 この讃美歌は、日本で最初に訳された讃美歌の一つですが、時代をこえて歌い継がれています。福音の原点を教えてくれるような讃美歌の一つだと思います。最近はアメリカではあまり歌われなくなったと『讃美歌略解』にはありましたが、カントリー風やゴスペルのように歌われているのをYou Tubeで聴くことができます。

 「主われをあいす、主は強ければ、われ弱くとも 恐れはあらじ」と歌う歌詞は、イエス様と神の国の福音とクリスチャンの結びつきを教えてくれますし、わたしたちを力づけてくれる賛美の一つだと思います。


日本基督教団 板橋大山教会

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