2月21日(日)四旬節1主日(受難節第1主日)

「荒野の誘惑とイエス様」
マタイによる福音書4章1~11節

 今日は、「荒野の誘惑とイエス様」と題してマタイ4章1~11節のみことばから学び、そこから信仰の糧を与えられたいと思います。

1 さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。2 そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。3 すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」4 イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』/と書いてある。」5 次に、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、6 言った。「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、/あなたの足が石に打ち当たることのないように、/天使たちは手であなたを支える』/と書いてある。」7 イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と言われた。8 更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、9 「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。10 すると、イエスは言われた。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、/ただ主に仕えよ』/と書いてある。」11 そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた。

 今日は、イエス様が遭われた誘惑から学びたいと思います。

 誘惑の一つは、食についてでした。極度の空腹は人を危うくします。ヴィクトル・ユーゴ―の名作『レ・ミゼラブル』では、飢えに泣く姉のこどもたちを救おうとしてパンを盗むジャン・ヴァルジャンのことが描かれています。人は生きる上で食物を必要としますから、食の問題は社会や国家の在り方まで左右します。歴史的に、革命やイデオロギーなどの背景には多くの場合に食の問題があります。

 旧約聖書の中にも、ところどころに飢饉や飢餓の問題が出てきます。創世記のヨセフ物語には、エジプトの地にイスラエルの人々が食料を求めて行った様子などが記されています。また、ルツ記には、モアブの地に食料を求めて一時的に逃れた人々の様子が記されています。

 そのようなイスラエルの歴史の系譜に神の子としてイエス様は遣わされました。そのイエス様に、誘惑者は、「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」と問うわけです。イエス様は、多くの人々にパンを分かち与えるお方ですが、イエス様のお答えは「『人はパンだけで生きる者ではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」というものでした。

 確かに人はパンだけで生きている存在ではありません。イスラエルの人々が、食料事情の良いエジプトやメソポタミアにではなく、カナンの高地を中心に半牧畜半農民として生きようとした大きな理由は、食の問題の重要性を知りつつも、アブラハムを信仰の父とし、創造主なる神様の口からでる一つ一つの言葉を律法として生きようとしたからだと思います。その律法が硬直化し形骸化していったとき、イエス様は、生ける神の言葉としてご自身をあらわし、生ける神の言葉の福音、神の国の福音を教えようとされたと福音書は教えます。

 ここには、イスラエルの人々に限らず、わたしたちすべてにとって、食物によってだけでは生きていない人間の“どう生きたらよいのか”という問いがあります。

 また、誘惑の一つは、イエス様に、奇跡行為者としてスーパーマンになれというものでした。イエス様は公的生涯において数々の奇跡を行っていきますけれども、神様の力を呼び寄せ超人として振る舞ったり、スーパーマンのようには行動していません。イエス様のなさった奇跡の数々を見れば、病を負っている人たちのためであり、困窮者のためであることがわかります。

 イエス様にあっては、奇跡を行うにしても神様の僕を生きておられるのであって、神の国の福音がけっして力の論理や英雄的志向をもって展開されていくというようなものでないことを、わたしたちに教えています。

 さらなる誘惑は、〔世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」〕というものでした。国々や社会や個々人を問わず何を最高の価値とするかという問いにもつながるものでした。

 旧約聖書を読みますと、ダビデ、ソロモンによる繁栄も虚しいものとして描かれています。繁栄国家維持のための重税や権力闘争による分裂など、聖書は決してイスラエルの歴史でさえ理想的には描いていません。北の王国イスラエルも南の王国ユダも滅んでいったと記しているのです。それでも、国家喪失から国家再建を夢見たユダヤの人々には、どんな手段を使っても、たとえ悪魔に魂を売るようなことになっても繁栄国家をもう一度となるのかと、まるで問うているような誘惑です。

 そのようなイスラエルの歴史の只中にあって、イエス様のお答えは、〔退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、/ただ主に仕えよ』/と書いてある。」〕というものでありました。

 誘惑に対するイエス様のお答えの一つ一つは、神の国の福音の中心にある真理ですから、イエス様に倣いたいと願う信仰者には、向き合うべき「問い」と「答え」になっていくと思います。

 (もう一言)

 多くの人々に親しまれている讃美歌の一つ「いつくしみふかき」の原作者は、ジョゼフ・スクライヴィン(1819-86)という人です。が、「特別な悲しみに遭った時、母を慰めるために作ったもので、他人に見せる気はなかったと、彼自身が語っている」と紹介されています。

 サンキーというキリスト教音楽家によれば、「その悲しみとは作者の許婚者が結婚式の夕、溺死したことであったという」ことです。愛する人の死、深い悲しみのなかから生み出された讃美歌と言えるように思います。愛する人を慰めるために生み出された讃美歌は、イエス様を友と呼び、罪と咎、憂いを取り去りたまう、と歌います。悩み悲しみに沈めるときも・・・慰めたまわん、と歌います。変わらぬ愛もて導きたまわん、たとえこの世の友がわれを捨て去っても・・・労わってくださる、と賛美しています。歌い継がれているこの讃美歌の歌詞を見ていて、今日の聖書の箇所とも無縁ではないように思いました。人はパンだけでは生きられないことや人生のパワーゲームでは慰められないことや繁栄や栄華も愛する人や愛を失ったら虚しいことなど考えさせられます。

 この讃美歌は、いろいろな国の人々がリズムを変えて歌ったりしていますが、聴いていて元気さえ与えられる讃美歌です。

日本基督教団 板橋大山教会

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