聖書 ヨハネ 21章1~14節(新約p.211)
今日の聖書箇所から学びたいと思います。
今日の聖書の1節以下を読みますと、7人の弟子たちがガリラヤのティベリアス湖畔で復活のイエス様にお会いしている様子が記されていますね。
ここでは、湖の名がティベリアス湖とあります。他の福音書ではガリラヤ湖と言われています。このガリラヤ地方にある湖は、時代によって名前が変わっています。旧約時代にキネレト湖(ヘブライ語で「竪琴の海」)、またゲネサル湖と呼ばれ、イエス様の頃はガリラヤ湖、ヨハネ福音書ではティベリアス湖(ローマ帝国第2皇帝ティベリウスにちなんで付けられた)と記されています。ちなみに、イエス様がベツレヘムでお生まれになったときの皇帝はアウグストゥス、十字架刑に処せられたときの皇帝はティベリウスです。
ガリラヤは、彼らがイエス様に見いだされ声をかけられ、従っていった場所です。イエス様が神の国の福音を宣教していったときの原点の場所ですし、弟子たちにとっても原点とも言える場所です。
マタイ28章16節では、「弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておられた山に登った。」とあり、また、マルコ16章7節では「あの方は、あなた方より先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる」という文言がありますから、ガリラヤということの格別の意味深さを感じさせます。
確かに、ガリラヤに戻り、ティベリアス湖(ガリラヤ湖)で漁をするということは、弟子たちにとって、イエス様の思い出と共に自分たち自身を取り戻すのにもっともよいことだったと言えるかも知れません。けれども、この方こそわたしたちのメシアだとイエス様に従っていった彼らには、イエス様が十字架にかけられ、おかかりになるままにしてしまったことは負い目にもなったでしょうし、申し訳ないという気持ちや後ろめたさも感じていたのではないかと想像します。
復活のイエス様にエルサレムでお会いしているとはいえ、ある者はぽっかり心に穴が空いてしまったような空虚さを引きずってはいなかっただろうかと他人事ではなく思います。
そのような彼らに、再び復活のイエス様が来られて、以前と変わらない振る舞いをされるのを目の当たりにして、弟子たちの驚きと喜びはいかほどであったことでしょう。
複雑な思いが去来し心の整理のつかないままに漁をしている弟子たちですが、“主だ!”と叫ぶ仲間の声に、ペトロは急いで湖に飛び込み、復活のイエス様のところへと泳ぎ出していきます。ペトロの驚きと喜びの気持ちが手に取るように伝わってきます。
そんな弟子たちに、復活のイエス様は「朝の食事をしなさい」と呼びかけ、「パンを取って弟子たちに与え・・・魚も同じようにされた。」と13節に記されています。一節まえの12節には、[弟子たちはだれも「あなたはどなたですか」と問いただそうとはしなかった。主であることを知っていたからである]と記されています。復活のイエス様のふるまいの一つ一つに、ああ、やっぱりイエス様だと実感させるものがたくさんあったのだと思われます。
復活のイエス様は、いっさい彼らを責めず、いつもとかわらずに「朝の食事をしなさい」と呼びかけています。これら一連のことのなかで、弟子たちは自らに向き合わされ、後悔の念から懺悔の思いへと導かれていったのではないでしょうか。
人が真に癒されるには何が求められ何が与えられるべきでしょうか。懐かしい故郷に帰って、かつての仕事に戻り、自分自身を少しずつ取り戻していくということは、その一つと考えられます。けれども、その人のほんとうにネックになっているものに答えが与えられなければ、まことの癒しに至るのはなかなか難しいのではないかと思います。
復活のイエス様が、十字架以前と変わらないお方としてふるまってくださる。そのようなイエス様のことを知ることによって、弟子たちはきっと心の底から回心へと導かれていったのではないでしょうか。傷跡の残るイエス様の姿そのものが教えているように、弟子たちにとっても彼らの傷跡は消えないと思います。たとえ、傷跡が消えなくても自分のなかに答えが与えられることによって癒されていったのだと思います。その後彼らは確かに、力づけられ強められ、自らの十字架を負いつつイエス様を宣教する者と変えられていったのですから。
キリスト者が自らの十字架を負っていくことができるようになるためには、やはりイエス様を知るということが求められていきます。
これらのことは、実に信仰のことがらです。
ガリラヤ湖は時代によって呼び名が変わっています。けれども、時代がどんなに変わろうとも、イエス様は永遠に変わらないわたしたちの救い主として、わたしたちがいつもどこにいても共にいてくださり、「右側に網を打ちなさい」「朝の食事をしなさい」と招いてくださっています。そのような復活のイエス様を、今日の聖書のみことばから読みとりましょう。そして、神様の愛に感謝しましょう。
アーメン。
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