聖書 ヨハネ20章19-31節(新約p.210)
今日の箇所には、迫害を怖れて閉じこもっている弟子たちのところに、復活のイエス様がいらしてくださったことが記されています。また、直接知ることでしか信じないと懐疑的だったトマスのことが、記されています。
怖れおびえる弟子たちや懐疑的なトマスに親近感を覚える人たちも多いのではないでしょうか。
わたしたちは、いつも、不安や怖れや懐疑に襲われているからです。
19節以下を読みますと、「戸に鍵をかけて」とありますが、ギリシャ語で複数形が用いられていますから、きっと、戸という戸、扉という扉に鍵を二重にも三重にもかけて閉じこもっていたのだと思います。それほど弟子たちは不安と怖れのなかにあったのだと思います。
そのような弟子たちのところに復活のイエス様が来てくださり真ん中に立たれ、「平和があるように」と言ってくださったのです。
20節には、イエス様が、傷ついた手やわき腹をお見せになったと記されています。傷ついた手やわき腹をお見せになったということは、十字架の死と復活が切り離されえないものであることを教えています。
このことは、わたしたちキリスト者がしっかりと受け止めなければならないことです。
22節には、弟子たちに息を吹きかけるイエス様の姿が記されています。
「息を吹きかけて」という文言は、創世記の天地創造のなかで語られている「息を吹き入れた。・・人はこうして生きる者となった。」(創世記2章7節)という神の行為としての文言に通じています。
聖書は、被造物に命を与え生きるものとするのは創造主なる真の神様だと教えています。ですから、イエス様の行為が神の行為そのものであって、弟子たちに創世記の創造における神の行為を思い起こさせるものになっています。しかも、十字架に死に釘と槍で傷を負わされた復活のイエス様によって息を吹きかけられたことで、弟子たちは、やがて命をかけてイエス様を宣教していくことになっていくのです。
24節以下には、ディデモと呼ばれるトマスのことが記されています。トマスは、復活のイエス様が弟子たちのところに来られたときその場にいなかった弟子ですね。他の弟子たちが「わたしたちは主を見た」と言った時、トマスは「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」と懐疑的な言葉を発しています。
直接確認しなければ受け入れられないトマスの姿は、わたしたちにとっても自然なことのように思われます。
そのようなトマスに、イエス様は、「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。・・・わたしのわき腹に入れなさい。」と言われています。また、そのイエス様が、「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」と言われたことも記されています。
ここには、信仰にとってのとても大切なことが語られています。
キリスト者の信仰には、直接性というものが重要です。なぜなら、わたしたちには、十字架の死と復活されたイエス様のことが自分の事柄にならないかぎり、主イエス・キリストへの回心など起きようもないからです。自分にとってのイエス様になったとき、イエス様の「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」という言葉も、自分のことがらになっていくのだと思います。
復活のイエス様に出合わせていただくことによって回心へと導かれ宣教者になっていく弟子たちの姿を、わたしたちはみていくことができます。ですから、このことを自分たちにも当てはめて、信仰者としての歩みが固くされていくことが望まれるでしょう。弱いわたしたちが、弟子たちのようにイエス様に息を吹きかけられて、生かされ励まされ、イエス様を証しする者とされてまいりますよう導かれていきたいと思います。
アーメン
0コメント