5月17日(日)復活節第6主日

聖書  ヨハネ16章25~33節(新約p.201)


 今日の聖書の箇所からは、「しかし、わたしはひとりではない。父が共にいてくださるからである。」と記されてある32節のみことばを中心に学び、共に分かち合いたいと思います。

 イエス様は、公の生涯に入られたとき、アンデレやペトロ、フィリポやナタナエルなどに声をかけられ、弟子となった彼らを伴いつつ、カナの地方やガリラヤ湖(ティベリアス湖)の周辺をめぐって、神の国の福音を宣べ伝えられました。当然、イエス様は、弟子たちと寝起きし食事を共になさったと思います。

 そのようなイエス様が弟子たちに向かって驚くべき内容を告げられました。
 25、26節にありますように「・・・たとえを用いて話してきた。もはやたとえによらず、はっきり父について知らせる時が来る。その時には、あなたがたはわたしの名によって願うことになる。」とおっしゃり、32節では「だが、あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。」と言われたのです。

 共に寝起きし共に食事をしていた弟子たちにしてみれば、イエス様から、あなたたちは私から離れ去り、わたしを見捨てるのだと告げられたことは驚き以外の何物でもなかったことでしょう。27節で用いられている「愛し」にはギリシャ語のフィリアが用いられています。以前のショートメッセージでも触れましたようにギリシャ語のフィリアは友人知人間の信頼の愛をあらわす言葉です。友を愛するという愛の関係性さえ破られ打ち消されてしまうようなことをイエス様はおっしゃったわけです。

 けれども、イエス様は続けて、「しかし、わたしはひとりではない。父が共にいてくださるからだ。」とおっしゃいました。

 イエス様が言われたこの「父が共にいてくださるからだ。」というお言葉は、他の福音書マタイ1章23節の[「見よ、おとめがみごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。]と記されてある「インマヌエル」という言葉につながります。

 イエス様のご生涯は、[その名は「インマヌエル」と呼ばれる。]からはじまって、「しかし、わたしはひとりではない、父が共にいてくださるからだ。」とご自身をお示しになりながら十字架への道を歩まれた、「インマヌエル」そのものと言えます。

 イエス様を信じるキリスト者の信仰においては、「神は我々と共におられる」という「インマヌエル」信仰がとても重要な信仰の核になっていくと思います。

 なぜなら、この世の只中を生きるわたしたちが、同時に神の国を生きるわたしたちであるためには、その信仰者の歩みを豊かに導き支えるところの要となるのが、この「インマヌエル」信仰だからです。

 26節でイエス様が、「その日には、あなたがたはわたしの名によって願うことになる」とおっしゃっておられますが、わたしたちがイエス様の御名によって祈るのは、今日の聖書の文脈から理解するとわかりますように、イエス様ご自身がお示しになった「インマヌエル」を受け止めるためだ、とわかってくると思います。

 わたしたちは、日々のなかで、信仰によって「しかし、わたしはひとりではない。父が共にいてくださるからだ。」という「インマヌエル」を実感してまいりたいと思います。そのように導かれていくとき、イエス様がご自身をもってお教えくださったように、「わたしは既に世に勝っている」というみことばも少しずつ自分のものになっていくのではないでしょうか。

 時に孤独を感じさせられてしまうようなこの世にあって、「しかし、わたしはひとりではない。父が共にいてくださるからだ」というみことばと共に、「わたしは既に世に勝っている」というみことばもまた、きっと力になっていくと思います。

アーメン。

日本基督教団 板橋大山教会

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