「迷い出た一匹の羊」 マタイによる福音書18章10~14節
今日は、「迷い出た一匹の羊」と題して、マタイ18章10~14節のみことばに学びましょう、
10 「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。言っておくが、彼らの天使たちは天でいつもわたしの天の父の御顔を仰いでいるのである。
12 あなたがたはどう思うか。ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか。13 はっきり言っておくが、もし、それを見つけたら、迷わずにいた九十九匹より、その一匹のことを喜ぶだろう。14 そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。」
救い主イエス様のことを、多くの画家が描いています。いろいろな描かれ方がされているなかで、小羊を肩に抱くイエス様の姿や羊の群れと一緒にいるイエス様の姿を描いた絵画を、みなさんもご覧になったことがあるのではないでしょうか。
福音書では、迷えるわたしたちのことを羊にたとえて、良き羊飼いとしての救い主イエス様をわたしたちに紹介しています。
パレスチナは乾燥した気候の土地ですから、飲み水の確保はとても重要なことでした。パレスチナには、メソポタミアのチグリス・ユーフラテス、エジプトのナイルのような大河がありません。狭い渓谷を流れるヨルダン川のほとりは町を建てるには適していません。しかも、降雨量は、年間平均500mm程度で、東京のおよそ3分の1、ですから、パレスチナでの生活では、水の確保がもっとも必要なことでした。
パレスチナの飲料水の確保には、4つほどの方法があり、「自然の泉」から、「井戸」から、「地下に大きな穴を掘って雨水を溜める貯水」から、「地下水道によって泉から引いて貯めた貯水から」です。ですから、水の貴重さは、わたしたちの想像を越えるものがあったでしょう。
ヨハネの福音書では、イエス様が井戸端においてサマリアの女に「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」(ヨハネ4:14)と言われていることが記されています。井戸の水と永遠の命の水とを重ね合わせて福音を語られるイエス様の姿に、水が当たり前にあるわけではないパレスチナという背景とともに神様の救いの真理の貴重さ、ありがたさを感じ取ってよいでしょう。
羊飼いは生きるための水へと羊たちを導かなければなりません。良い羊飼いは、草や水へと導くことに長けているのは当然でしょう。救い主としてのイエス様が、わたしたちにとっての良き羊飼いであるということは、羊にたとえられたわたしたちのためです。ライオンやトラのようにふるまう人もいると思いますが、惑わされやすく迷いやすいわたしたちは、羊のように思います。
イエス様は、「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。」と、教えるために、迷い出た一匹の羊のたとえを持ってお語りになりました。
九十九匹を残してでも捜し廻り、見つかったら九十九匹よりも、見つかったその一匹を喜ぶ羊飼いのたとえは、明らかに一匹も失われてはいけないこと、小さな者の一人も滅びに至ってはいけないことを、わたしたちに教えていると思います。
この世の現実は大勢や数の論理で動いていますから、マイノリティーや小さくされている者のかけがえのなさにまで配慮がなされない悲しい現実を見させられることが多いと思います。そのような現実に生きるわたしたちに、福音書が伝えようとするイエス様は、まさに、迷い出た一匹の羊を捜し、見つかったら喜び、小さい者の一人も滅びないようにと導かれる方であるゆえに、救い主であることを教えていると思います。
そこに救い主を見、神様の愛を見ることのできる人はさいわいだと思います。
イエス様は、良き羊飼いは羊のことを知っていると、盗みに来た盗賊たちとの違いをお話になっておられますが、まさに、小さい者(小さくされている者)、迷い出た一匹にさえ目を留め、捜し出し、導き出してくださるお方としてイエス様を知ることは、救い主をわたしにとっての救い主とする上で欠かせないことなのだと思います。
わたしたちの周りでは、羊を飼う人を見るということはほとんどありません。けれども、犬や猫を飼う人たちの多いことは目にします。散歩をしていて、見かける飼い犬や猫の飼い主を信頼している表情や心配している眼差しやしぐさに驚かされることがあります。一緒にいるときの嬉しい様子や時にあらわすわがままな表情など、そこには飼うものと飼われるものの実直な信頼関係、愛情関係を見る思いがします。
わたしたちは、小さい一匹の羊としての信仰者として、良い羊飼いであられるイエス様に信頼と愛を感じていいのだとあらためて思います。
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