1月31日(日)降誕節第6主日(公現後第4主日)

「山上の説教 八つのさいわい」

マタイによる福音書 5章1~12節

 今日は、〔山上の説教 「幸い」〕と題してマタイ5章1~12節のみことばから学び信仰の糧を与えられたいと思います。

1 イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。2 そこで、イエスは口を開き、教えられた。3 「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。4 悲しむ人々は、幸いである、/その人たちは慰められる。5 柔和な人々は、幸いである、/その人たちは地を受け継ぐ。6 義に飢え渇く人々は、幸いである、/その人たちは満たされる。7 憐れみ深い人々は、幸いである、/その人たちは憐れみを受ける。8 心の清い人々は、幸いである、/その人たちは神を見る。9 平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる。10 義のために迫害される人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。11 わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。12 喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。

 この箇所は、大変有名な箇所です。この箇所を読んで、ある人は、理想的だが非現実的だと評します。皆さんは、どのように受け止めるでしょうか。

 マタイによる福音書は、「天の国」と言い、マルコによる福音書やルカによる福音書は「神の国」という言葉を用いて福音が語られています。「天の国」という言葉で語られるにしても「神の国」という言葉で語られるにしても、福音によって被造物であるこの世に神様のみこころがあらわになるようにという点で、どの福音書も共通していると思います。

 神様のみこころは、心の貧しい人々や弱い立場に置かれている人々が顧みられることであり、悲しんでいる人々が慰められることです。人が柔和であるように、あるいは、憐み深い人であるように、心が清い人であるように、平和を実現する人であるように、義を大切にして迫害を受けても義のために努める人であるように、これらは、みな神様のみこころにかなった被造物としての人のあり方だと教えています。

 マタイでは、「心の貧しい人々は」と「心」を強調していますが、ルカでは単に「貧しい人々は」となっています。どちらも「貧しい」という点で共通していると思います。イエス様は、そのような彼らに「幸い」だと言われておられるのです。なぜでしょうか。

 ある時、「何で貧しい人々が幸いなのか。貧しいために困っている人が多いのに。どうしてなのかわからない。」と言われたことがあります。そのような疑問は、この社会を見れば当然だと思います。

 離婚し二人の子を連れて家を出た女性が、行き場を失って教会に相談に来られたことがありました。その母子には一時的に教会の牧師館に住んでもらい、その後、取りあえずの住まいを彼らのために確保してから、生活保護が受けられるようにと、お手伝いをしたことがあります。DVから逃げるようにして離婚したその母子は、さいわい生活保護を受けてアパートも借りられ、再出発ということになりました。二人の子どもたちは明るくとても元気にしていましたが、DVで相当傷ついていたためか母親の女性には精神的に不安定な様子が感じられました。この女性は、「貧しい」ということで何もいいことなどないという現実を生きているようでした。

 さて、イエス様は、「心」を強調するにしても単に貧しい人々と言うにしても、「貧しい」がどうして「幸い」と言われたのでしょうか。あらためて考えてみましょう。それはきっと、貧しい彼らが、この世の力ある人やさまざまなものにではなく、神様をたのみとし、拠り所を神様に置かざるを得ないからだと思います。そして、そのような人々が幸いとならなければ、この世は救われない、ということでもあるからだと思います。人も変わらなければならないし、この世も変わらなければならない、それゆえに、「悔い改めて福音を信じなさい」になるのだと思います。

 今日の箇所は、“汝の隣人を愛せよ”と言われても愛せない、“汝の敵を愛せよ”と言われたら、なおさら愛せないこの世の現実にあって、確かに理想論と受け取る人もいるでしょうし非現実的と受け取る人もいるでしょう。けれども、ここに真理を見出す人たちには、決して理想論でもなく非現実的なものでもない、まさに、現実となるべきことなのだとわかってくると思います。

 イエス様は、「貧しい」と「幸い」が結びつかなければ、彼らの幸いが現実にならなければ、この世界も、人々も、本当の意味で「幸い」にはならないと教えておられると思います。イエス様の「幸い」の教えに導かれていくとき、わたしたちは、そのようになりますようにと祈らざるを得ないものとされていくのではないでしょうか。そして、そのことは、「天の国」、「神の国」を生きることへとつながっていくことになると思います。

日本基督教団 板橋大山教会

日曜礼拝:  子どものための礼拝 9:30~  大人のための礼拝 10:30~ 173-0013 東京都板橋区氷川町47-3 電話:03-3964-4139